渋沢栄一の子供時代と家族構成【どんな幼少期だったの?】

渋沢栄一は、1840年の天保十一年、藍づくりを扱う家の長男として生まれました。

身分制度が厳しい江戸時代に、栄一はどのように育ち、どのような教育を受けたのでしょうか?

経済と道徳の両立や調和を図ろうとした栄一の子供時代に迫ってみたいと思います。

 

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渋沢栄一の子供時代

渋沢栄一の生まれ・出身地

渋沢栄一は、血洗島村で生まれ育ちました。

血洗島というのは、現在の埼玉県深谷市にあります。

血を洗うという怖い名前がついているのは、山の霊同士が戦い傷口をこの地で洗ったという説や、アイヌ語に由来しているなど様々な説があります。

栄一の父は藍づくりの職人でしたが、商人としても活躍しています。藍作りで大きな儲けを出し、藩の役に立っていたのです。

お父さんは、しっかりとしたしつけの厳しい人だったようです。

一方、お母さんは、とても優しい人だったようです。

 

渋沢栄一の幼少期

栄一は、几帳面で勤勉な父から三字経の手ほどきを受けます。物覚えがよく、論語も教えてもらいます。

七歳の時に、従兄にあたる尾高惇忠から論語など漢字の書物の他に、日本の歴史も学びました。

尾高の教育は、「面白いものから読めばいい」と、子供の知的好奇心を大切にするものでした。

栄一は、生涯読書に親しみますが、幼少期の読書体験が読書好きへとつながったことが伺えます。

読書に没頭するあまり、二宮金次郎のように歩きながら読書をしていて溝に落ちてしまったというエピソードも伝わっています。

十五歳のころから、父と共に藍の売り買いをするようになり、商売の面白さに目覚めたようです。

藍の良しあしのランキングを付け、一番良い藍を育てた人にご馳走をふるまうなどの工夫もしています。

 

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渋沢栄一の家族ってどんな人?

渋沢栄一の父・母について

栄一の父は、渋沢市郎右衛門(しぶさわいちろえもん)といいます。

血洗島の渋沢一族の中で一番有力だった「東の家(ひがしんち)」から本家筋の「中の家(なかんち)」に婿入りしました。

中の家は当時疲弊していましたが、東の家からの経済的援助や一郎右衛門の働きにより家運を取り戻します。

養蚕と藍玉の製造と販売の他、質屋業も兼ねていました。栄一は、小さいときから商業のセンスを家庭でしっかり学んだことが伺えます。

母のゑい(お栄)は慈愛に富んだ人物で、困った人を見て見ぬふりをすることができなかった人といわれています。

ハンセン病の女性の背中を流してあげたというエピソードも残っています。

栄一の後の慈善活動は、母の影響を受けているのかもしれません。

 

渋沢栄一の兄弟について

栄一は、実は三男でした。長男と次男が早世したため長男として育てられました。

八人兄弟の中で、栄一と5歳年上の姉の「なか」、十二歳年下の妹の「てい」以外は、天に召されてしまったのです。

姉のなかは、母ゑいと違ってずばずばストレートに物を言うタイプだったようです。

しっかり者で栄一をしかりつけるなど、栄一にとっては怖い存在でしたが、一時は看護が必要だったという記録も残っているようです。

また、妹のていは天真爛漫で、栄一が血洗島を出てからは、栄一の妻の千代のよき相談役になっています。

婿養子をもらって中の家を守り、4代目として盛り立てていったようです。

妹夫婦は、多忙な栄一が帰郷した際に寝泊まりができるように、明治28年に母屋を建てています。

妹夫婦の気遣いが偲ばれます。その建物は、昭和六十年から学校施設として、たくさんの外国人留学生が学びました。

今も深谷市に保存され、中庭まで入って外観を見学することができます。

 

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まとめ

小さな時から英才教育を受けた栄一。頭の良さや天才的なセンスを幼少期から持っており、特に「論語」が、彼のポリシーの根幹を担っていることが伺えます。

見識ある父と、慈愛あふれる母のそれぞれの良さをしっかり受け継ぎ、自分なりの花を咲かせて、世の中に貢献したのです。

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