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大河ドラマ「青天を衝け」や新一万円札の顔になるということで話題の渋沢栄一。
歴史をある程度真面目に学んできた人でなければ、一体「彼がどういう人物で、何をした人なのか?」ということを知らない人が多いでしょう。
この記事では歴史をあまり勉強してこなかった人でも分かるよう、
・渋沢栄一って何をした人なの?
・なぜ新一万円札になったの?
ということについて簡単にまとめていきます。
渋沢栄一って何した人?
渋沢栄一は、日本資本主義の父と言われ、日本の経済の発展に尽力した人で、現代でもよく名前を聞く有名な企業や銀行を設立しました。
栄一が起こした企業は約500社ともいわれています。 また、公共事業や慈善事業にも深くかかわり、約600の事業の功績があります。
彼が成しえたことは、フランス留学でパリ万国博覧会を視察し、視野を広げたことが大きく影響しているでしょう。
帰国後、明治維新で様変わりした国内の状況を見て、株式制度をつくったり、大蔵省で紙幣に関わったりします。
退官後は実業界に身を置いて、銀行や保険会社などを設立し、経済を活性化すると共に、人材育成の観点から教育にも力をいれていくのです。
最後の将軍である徳川慶喜との縁を大切にし、話相手になって慶喜の伝記を残したことも、有名なエピソードです。
栄一の記した慶喜の思いによって、江戸城無血開城の意図が日本の独立を守ることにつながったことも伺うことができるのです。
渋沢栄一が作った会社とは?
渋沢が関わった会社の約6割は、国有化されたり合併されたりして、社名が変わっているものもありますが現在でも事業が続いています。
有名な企業では、王子製紙や東洋紡績などがあります。
水戸藩の徳川斉昭が隅田川に創設した石川島造船所にも関わっています。
第一銀行は、現在のみずほ銀行に継承されています。
渋沢が最後に作った会社は、日本航空輸送会社でで、このことは、彼の伝記資料に記されています。
社長は別の人物であり、渋沢は創立委員長という立場で関わっています。会社をつくるにあたって助言をしたり、時にはもめ事の仲裁をしたりしていたようです。
彼の調整能力や人を巻き込み、力を合わせて形をつくっていく手腕が発揮されたことが伺えます。
渋沢栄一の現代における評価
「マネジメントの父」と言われるピーター・ドラッカーは、渋沢栄一の業績を褒めたたえ、自分自身の授業でも取り上げています。
ドラッカーは、「絶滅の時代」の著書の中で、渋沢が「創造力のある強い日本」を創ろうとし、「貧しい人の生産性を高める」ために尽力したことを評価しています。
多くの会社を作った成果だけでなく、渋沢の基本的な考え方や洞察力が素晴らしさと述べているのです。
現代では、SDCsの実現に向け、社会貢献をしながらいかのビジネスを成長させ続けるかが大きな関心事になっています。
単なる金儲けの企業を作るのではなく、資材と人材の力を発揮することを大切にしてきた渋沢の考え方は、現代の経済界でも評価されているのです。
渋沢栄一が新一万円札になる理由は?
1万円札といえば「諭吉さん」とも言われるように、福沢諭吉の顔が馴染みがありますが、いよいよ2024年に40年ぶりに、渋沢栄一が1万円札の顔になります。
実は、渋沢は、1902年の「第一銀行券」の十円札紙幣にも登場しています。
これは、彼が第一銀行の頭取だったからです。
また、1963年の千円札の候補にもなっていました。
この時は、「ひげ」があることが偽札を防ぐことにつながるということで、伊藤博文が選ばれました。
紙幣の肖像は、時代の価値観によって求めれているものがちがうようです。
最近では、女性が紙幣に選ばれることも多くなってきました。
経済と道徳は、車の両輪のようなものだと渋沢は語り続けました。奉仕や優しさだけでは、経済の循環が滞ってしまいます。
今回、渋沢が選ばれたのは、このような普遍的な考えが今こそ、大切だと見直されてきているのかもしれません。
まとめ
働き方改革や男女共同参画、バリキャリからフルキャリなど、どんどんビジネスに関する言葉がネットでもとびかっています。
個人の働き方と組織の在り方が大きく方向転換をしている今こそ、渋沢栄一の考え方をもう一度見直し、自分の幸せや顧客の幸せ、社会全体の幸せについて互いに語り合ってみたいものです。