渋沢栄一の晩年の活動と最期【働き方改革の先駆けのような生活だった】

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91歳の長寿を全うするまで、生涯現役として働き、社会に貢献し続けた渋沢栄一。

彼の生き方を支えた思想や健康法は、どのようなものだったのでしょうか?

渋沢栄一の晩年の活動と最後の様子に迫ってみたいと思います。

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渋沢栄一の晩年の活動

六十歳の時に、栄一は男爵を授けられました。栄一は、その名誉に甘んじることなく、精力的に活動を続けていきます。

日本女子大学を開校したり、夫人と共に渡米しルーズベルト大統領と会談したりしています。欧米を視察することは、栄一の視野を広げ後の彼の活動に大きな影響を与えたことが予想されます。

 

しかし、六十四歳のときには、風邪をこじらせてしまい、長患いとなってしまいました。

一時危篤の状態にまで陥ってしまい、徳川慶喜が駆けつけたという記録も残っています。

 

もともと、風邪をひきやすく喘息ともつきあってきた栄一は、この時の体験から、自らの健康を維持するために、常に計画を立てて活動すると共に節制を大切にしていく晩年へとシフトしていったことが伺えます。

 

経済と道徳という相反するものを車の両輪のようにまわし、循環することで日本社会を豊かにしていった栄一らしい健康法といえます。

生涯現役という自負をもってしっかり活動し、活動が過多にならないように節制も心掛けて、調和を図っていくライフスタイルをお手本にしたいものです。

 

明治42年、栄一は七十歳になりました。古希という節目にあたり、それまで関わってきた数々の役職の引退表明をします。

しかし、現場の第一線から全て退いたわけではなく、銀行の頭取を務めあげ、日本経済のために中国に訪問しています。

 

七十七歳の時には、企画から二十五年もの歳月をかけた「慶喜公伝」を作り上げています。

この作品から、栄一が主君慶喜をリスペクトしていることが伝わってきます。また、江戸城を無血開城した慶喜の大局的な物の考え方も読み取ることができます。

 

大正十二年、八十三歳の高齢の時に関東大震災が起きました。東京が未曽有の被害を受け、家族が心配する中、栄一は郷里に避難することを選びませんでした。

自ら火の手の上がる町に行き、ボランティア活動の陣頭指揮をとったというのですから、驚きです。

 

震災後の九月九日には、「大震災善後会」を発足させ、寄付金の募集や救護活動への民衆の力を結集しています。

そのスピード感あふれる行動力とリーダーシップには、見習うべきものがあります。

 

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渋沢栄一の最期

渋沢栄一の九十歳の時の日課は、朝六時から七時の間に起き、八時から八時半の間に朝食をとるという規則正しいものでした。

お日様があがるころ起床、朝食を必ず食べるという「早寝早起き朝ごはん」の王道を見事に実践しています。

 

午前九時からは、読書の時間とし、お昼ごはんは食べないで午後は外出して仕事をしていたといいます。

実際、八十七歳の時「青い目の人形」の交流を図って日米親善に尽力したり、八十八歳では日本航空輸送会社を設立したりしています。

 

福祉や教育に大きな貢献をすると共に民間外交に力を入れているのです。

しかし、節制を心掛け、働きすぎないようにして夕方五時ころには帰宅しています。

 

六時くらいから夕食を食べ、その後はゆったり読書を楽しみ、十時ころ就寝する生活だったようです。

まさに働き方改革の先駆けです。

 

副交感神経と交感神経のバランスやオンとオフのスイッチの切り替えがうまくいきそうな時間帯を上手に使っています。

そんな栄一は、昭和十六年十一月十一日に息を引き取ります。

 

九十一歳という長寿でした。大腸狭窄症のため、十月には自宅で開腹手術も受けていました。

激動の明治から大正、昭和を駆けぬけ、豊かな日本社会を創り上げてきた栄一の死去に際し、弔問客が後を絶たず、天皇の勅使も差し遣わされたといいます。

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まとめ

定年退職をしたら何もしないでごろごろして、自分は動かず人のせいや行政のせいにして文句を言ったり非難したりするのではなく、

「生涯現役」で世のために動き続けた栄一の行動力はさすがです。

 

しかも、過剰にやりすぎず、身の丈にあった自分にできることを選択する判断力も見習いたいものです。